レニー滝川のシネフィル日記

映画大好き人間による備忘録のようなもの。

『イージー・ライダー』自由でいることの難しさ。雄大な風景と2台のバイク。

どうもレニーです。
今回紹介するのは、アメリカン・ニューシネマを代表する作品である『イージー・ライダー』。

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(C)Sony Pictures Entertainment (Japan) inc.

アメリカン・ニューシネマとは1960年代後半から1970年代半ばにかけて制作された一連の作品群のこと。ベトナム戦争真っ只中であった当時のアメリカの世相を映し、主に若者から大きな支持を受けた。アメリカン・ニューシネマの詳細な概要については、また別の記事で書きたいと思う。

本作『イージー・ライダー』のパブリックなイメージとしては、バイクに跨った若者がロックミュージックとともにアメリカの広大な風景を駆けていく開放的で自由なイメージがあるように思う。
しかし本作で描かれていることはそのイメージからは程遠く、痛々しさや猛烈な閉塞感さえ感じてしまうものである。

イージー・ライダー』のあらすじとキャスト

イージー・ライダー』にはほとんどあらすじがない。ワイアット(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)の若者2人がハーレーダビッドソンに跨り、ひたすら旅をするという流れである。その旅の中で2人はヒッピーの集団に世話になったり、弁護士であるジョージ・ハンセン(ジャック・ニコルソン)に出会ったりするが、明確な物語は示されずまるでドキュメンタリーを観ているかのようにも感じる。
これは本作が制作された経緯を聞けば納得なのだが、当初は脚本なしのアドリブで撮影がスタートされたという。その結果「さすがにこれはまずい」ということになり、脚本家のテリー・サザーンキューブリックの『博士の異常な愛情』を手掛けた人物)が呼ばれ脚本が用意された。なんだか行き当たりばったりで作られた映画のようにも聞こえるが、本作はその衝撃的な内容で映画史に名を残すことになる。

本作の主人公の一人であるワイアットを演じたのは、ピーター・フォンダ

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Kobal/COLUMBIA/TheKobalCollection/WireImage.com

相棒のビリーとの詳しい関係性は一切語られないが、旅のイニシアチブはどちらかというとワイアップの方が握っているのかなという印象。バイクには星条旗のデザインが施されており、ビリーからはキャプテン・アメリカという愛称で呼ばれている。そしてティア・ドロップス型のサングラスが良く似合う。

ワイアットの相棒であるビリーを演じたのは、本作で監督も務めるデニス・ホッパー

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長髪がトレードマークで、相棒のワイアットよりも奔放な性格という印象。「自由」を体現しているかのような人物だが、その風貌から思わぬ迫害を受けたりもする。

そして2人が旅の途中で出会う酒浸りの弁護士ジョージ・ハンセンを演じているのが、ジャック・ニコルソン

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人が良く軽快な語り口が印象的な男だが、酒に酔っているせいかいつも虚ろな目をしてる。主人公2人と意気投合をし彼らの旅に参加するが、やがて凄惨な最期を迎えてしまうことになる。
ジャック・ニコルソンはのちにハリウッドを代表する俳優へと進化するが、本作をはじめ『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970年)や『カッコーの巣の上で』(1975年)などのアメリカン・ニューシネマに多く出演している。

この3人が自由気ままにバイクを走らせるだけの映画なのだが、想像以上に残酷で救いようのない現実が彼らを襲う。

自由を恐れる人々(ネタバレあり)

自由の在り方は人それぞれであるけれど、人間には「自由でありたい」という根源的な欲求があるように思う。そういった意味では、本作の主人公たちは見事に自由を体現している。雄大アメリカの風景とロックミュージック、そして2台のバイク。毎日マリファナを吸いながら、特に当てがあるわけでもなく旅をする。当時のアメリカの若者たちはその姿に自由を見出し、本作は大きな支持を受けた。

しかし『イージー・ライダー』が映画史に残る作品となっている大きな理由は、その悲劇的なラストにあると言って間違いない。簡単にいうと、ワイアットとビリーはバイクで走っていたところをその土地の農夫らしき男に銃で撃たれ殺されてしまう。しかもドラマチックな演出も彼らが殺された明確な理由も示されないまま、突発的にその「自由」は終わりを迎えてしまう。そしてワイアットのバイクが炎上する様子を映したまま、映画も終わりを迎える。
このラストに至るまでの間でも、彼らは旅先で不当ともいえる扱いを受けている。モーテルへの宿泊を断られたり、立ち寄ったレストランでは地元の男たちに明確な嫌悪感をぶつけられる。自由を謳歌する彼らに居場所はないのだ。

ジャック・ニコルソン演じるジョージ・ハンセンのセリフが、この映画のメッセージを端的に示している。彼は、「自由について説くのと自由であることは全く違う。あいつらはお前に自由を見出している。自由な奴を見るのが怖いのさ」と語る。焚火をしながらジョージがビリーに語りかける名シーンである。そしてこのシーンの直後、ジョージはレストランで居合わせた男たちに寝込みを襲われ撲殺される。

本作は確かに自由を描いてはいるが、正しく言えば「自由でいることの難しさ」を描いている。ワイアットとビリーも刹那的には自由であったものの、古くからある伝統や理由のない悪意によって殺された。
その結末には不条理性さえも感じるが、いつの時代にも不条理は存在する。時代が移り変わりどれだけ快適な生活を送れるようになったとしても、人間は誰もが見えない何かに縛られ続けているように思う。どう生きるかは個人の自由であるが、『イージー・ライダー』が発するメッセージはいつの時代にも響き続けるだろう。